テキスト:関 涼子


 としまえんの正門ゲートをくぐり抜けると、木立を臨む小路が園の奥へと伸びている。
 平日のためか暑さのためか、来園したひとたちはみんな、おっとりとした足取りでそぞろ歩いていた。そこへ、
「やっぱここはコークスクリューだろ!」
「なに言ってンだよ、豊島園っつったらフライングパイレーツだっつうの」
 少しばかり不毛な言い争いの声が響き、すれ違うたびに道行くひとの視線が戸惑うように揺れる。
 光が丘と練馬が小競り合いを始めてそろそろ五分ほど経とうというころ、練馬春日町は大きくため息をついた。
「……いい加減にしたら。きみたちが乗りたいだけだろ、それ」
「なに言ってンだよ、自分の嫌いなモンをひとに勧めたらヤなヤツだろっ。そう言う練馬春日町はなにがオススメなんだよ」
 ムキになってくちびるを尖らせる練馬の詰問に、面倒くさそうな面持ちで練馬春日町は少し考え込んでから、
「フィッシングとか」
「オマエこそ趣味全開な上に乗り物じゃねーだろそれっ!」
「としまえんの良さは乗り物だけじゃない。冬ならスケートだって楽しめる」
 全力で否定されて憮然とした練馬春日町との間に、まあまあ、と豊島園が割って入る。
「ねえ、カルーセルエルドラドはどう? せっかくだから乗り物に乗ってもらいたいし、動きも穏やかで、最初に乗るにはいいんじゃないかな?」
「まあ」婦人が声を上げる。「それ、あそこに見える回転木馬のことよね? 懐かしいわ。昔、主人とよく乗ったのよ」
「あ、そうか。カルーセルエルドラドは1971年にはとしまえんにあったから」
 豊島園が言うと、婦人が嬉しそうに頷く。
「よっし。んじゃ、決まりっ!」練馬が手を上げた。「カルーセルエルドラド乗ってから、フライングパイレーツな!」
「だから、コークスクリューだって!」
「……まだ言ってる」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら練馬と光が丘が先を行き、肩をすくめてから練馬春日町がついていく。
「すみません、なんだか僕たちの方が盛り上がっちゃって」
 豊島園が慌てて頭を下げると、夫人は「こちらこそありがとう」とおっとり笑んだ。


 結局、カルーセルエルドラドのあとは、練馬がじゃんけんに負けてコークスクリューへ乗った。
「なぁ練馬春日町、大丈夫かー?」
「…………放っておいてくれないか」
 ベンチに腰を下ろし、うつむき加減の練馬春日町から掠れた声が返ってくる。
「ンだよ、苦手なら言やあいいのに」
「聞かなかったくせに……」
 練馬春日町がちらりと恨みがましく見上げると、
「オーイ、飲むモン買って来たぞー」
 ちょうど光が丘と豊島園が連れだって、両手に人数分の紙コップを持って売店から引き返して来た。
「お、来た来た! コーラコーラ」
「バカ、そっちは俺のポカリだ。右のだ右」
「サンキュー。うっわ、ひゃっこいぜー」
 練馬はカップを首筋にくっつけてしばらく冷やしてから、ぱくっとストローをくわえた。
「練馬春日町くん、確か炭酸ダメだったよね」豊島園はふたつのカップを差し出した。「オレンジジュースとウーロン茶、どっちがいい?」
「……ウーロン茶」
「じゃあ、わたしはオレンジジュースをいただいてもいいかしら?」
 練馬春日町の隣へ腰を下ろし、扇子で静かに扇いでいた婦人が言った。
「はい、どうぞ。──お疲れじゃないですか?」
「ううん。楽しかったわ。なんだか若返った気分よ」
 夫人は紙コップを受け取りながら微笑んで、ふいと小さく──ほんとうにとても微かな声で──若い頃に戻れたらいいのにね、とひとりごちた。
 その笑顔がどこか寂しそうに見え、豊島園は首を傾げた。練馬春日町もまた面伏せた顔をちらりと上げ、唐突に現れた微かな沈黙に練馬と光が丘も気づき、顔を見合わせてから夫人へ視線を投げる。
「その……」
 豊島園は思い切って、夫人に尋ねた。
「差し出がましいかもしれませんが、今日おひとりでとしまえんへ来られた理由を聞いてもいいですか?」
 夫人は少し驚いたように大きくまばたいてから、笑顔で頷いた。
「主人と昔、ここでよくデートしたの」
「ご主人、亡くなったんですか?」
「おい、湊っ」
 遠慮ない練馬春日町の言い方にギョッとして、光が丘がたしなめるように名前を呼んだ。が、夫人は嫌な顔ひとつせずに頷く。
「ええ、そう。もうそろそろ四ヶ月ぐらい経つかしら……事故で」
「それは……」
 お気の毒です、と言うべきだろうか。そんな言い方では馴れ馴れしいだろうか──豊島園が言葉を手繰っているうちに、夫人は先を続ける。
「子供たちもようやく手を離れたし、これからはふたりでのんびりとあちこち遊びに行きましょう、なんて話をしていた矢先にね。わたしが連絡を受けて病院に駆けつけたときは、もうすっかり息を引き取っていたの」
 結局、言葉を失って豊島園は息を呑んだ。他の三人も同様、かける声が見つからずに黙りこむ。
「せっかちよねえ。もう少し待っていてくれたら、お別れくらい言えたのに」
「じゃあ、今日は旦那さんとデートしに来たんだ? おばさん──痛っ」
 光が丘が練馬の脇を小突いた。
「ンだよっ」
「駈流! おばさんとか言うな、失礼だろ」
「だっておばさんじゃんか」
 ふたりが言い合う姿を見て、夫人はくすくすと笑いを漏らした。
「あら。わたし、デートへ来たように見える?」
「はい。とても素敵です」
 豊島園が頷くと、
「嬉しいわ。これでも思い切りおしゃれしてきたつもりなの」
 そう言って夫人は、自分の手にした紙コップへ視線を落とした。
「……ようやくお葬式だとか、ご挨拶だとか、いろいろなことが終わってね。久しぶりにテレビを見ていたら、としまえんがなくなるかもしれないってニュースを聞いて……なんだか、なにもかも消えてしまうようで、急に寂しくなってしまったの」
 つい先日のことだ。東京都がとしまえんの敷地を買収し、公園として整備する方針だと一部マスコミが報じたのだ。
「あれは、なくなることが決まったわけじゃないんですよ」
 豊島園が必死に言うと、婦人は頷いた。
「ええ、そうみたいね。……でも、なんだかいてもたってもいられなくなってしまったのよ。主人と来たころの面影が残っているうちに、黒い服はやめて、おしゃれをしてとしまえんに行こう、って。そうしたら、少しは気分も晴れるんじゃないかと思ったのだけど」
 夫人は小さくかぶりを振った。
「でも、やっぱりひとりぼっちじゃ寂しいわね、今日はあなた方に会えて本当によかったわ」
「……それ、よくねえじゃん」
 ぽつり、と耐えかねたように練馬が独りごち、光が丘は眉を顰めた。
「おい、駈流。やめろよ」
「だって、全然よくねえし。俺らがいたって……隣におっさんがいないんじゃ、ダメじゃん」
 練馬は怒ったようにそう言ってから、しゅんとして肩を落とす。
「さよならも言えなかったなんてさ……あんたも、そんな無理にニコニコしなくたっていいじゃんか」
「きみが気にすることじゃない、練馬」
 練馬春日町がさらりと言い、練馬はムッとして眉を吊り上げた。
「おまえはっ! なんでそう、いっつも冷たいコト言うんだよっ」
「きみこそ、そんなことを言われて一番困るのは誰だと思ってるんだ。一番悲しいのもきみじゃないだろ。わかった口をきくなよ」
「う……」
 練馬は言葉を飲み込み、夫人の顔を見て、再び肩を落とした。
「いい加減にしろよ。湊もわざわざ駈流にケンカ売ンな」
 やり取りを見るに見かねた光が丘がたしなめると、練馬も練馬春日町もバツの悪い顔でお互いに目をそらした。
「バカ、みんなして気まずくなってどーすんだ。そうじゃなくて、せめて今日一日楽しく過ごす方法考えろよな」
「ごめんなさい。わたし、なんだか嫌な話をしてしまったわね」
 少し困ったように夫人が言い、豊島園は勢いよく首を振った。
「いえ、僕らこそ逆に気を遣わせてしまって……すみません。なにかお手伝いできることがあればいいんですけど」
 豊島園のセリフに、三人とも小さく頷いた。
「あなたたち、みんな優しいのね。本当にありがとう」
 そう言って夫人は悲し気に笑い、
「目が覚めると、ひょっとしたら主人がまだどこかにいるんじゃないかって、毎朝思うのよ。お通夜もお葬式も四九日も済ませたのに、ちっともお別れできた気がしなくて……せめて最期にひと目でも会って、さようならとありがとうが言えたらよかったのだけど、ね」
 誰に聞かせるふうでもない、ひとりごとめいた声音だった。
 が、ややあってから豊島園がふいに「あ!」と大きな声を上げた。
「だったら、旦那さんにもう一度会えればいいんじゃないかな」
「? なに言ってンだ、沙武朗」
「急に会えなくなってしまったから、気持ちの整理がつかなくなってしまったんでしょう? いまから会って、きちんとお別れが言えたら──」
「それだ!」
 唐突に練馬が叫んで、夫人の手を取った。
「おばさん、俺らと一緒に行こう!」
「え……?」
「駅に行くんだよ、豊島園駅っ!」
 練馬は夫人をベンチから立たせ、手を引いて歩き出す。「あーなるほど、その手があったかあ」と手のひらを打って光が丘があとに続き、肩を竦めて練馬春日町がベンチから立ち上がる。
「ほら。行こうぜ、おばさん。善は急げって言うじゃん?」
「駅へ……? いったいなにをしに行くの?」
 不思議そうに目を丸くする夫人を振り返り、練馬は満面の笑顔でそれに応えた。
「最初に言っただろ、俺ら、駅メンだって!」


 大江戸線、豊島園駅。
 彼らと夫人が改札をくぐり抜けたとたん到着のアナウンスの音が聞こえ、ホームへ列車が滑り込んでくる。
「さ、乗って乗って!」
 促されるままに夫人は、車内へ乗り込んだ。そういえばどちら行きだったかしら? と首を傾げているうちに発車ベルが鳴り響き、扉が自動で閉まる。列車が走り出し、ガタンと車内が揺れ、彼女がポールへつかまろうとした──そのとき。
「あら……?」
 彼女は車内に自分と、彼ら四人しか乗っていないことに初めて気づいた。
 いくら平日の日中とは言え、誰も乗っていない大江戸線は少し不自然な気がして、首を傾げて振り返る──と。
 四人の少年たちが、一斉に言った。
「ミラクル☆トレインへようこそ!」と。

前のページ  TOP  次のページ→