テキスト:関 涼子


  とある日の、昼下がり。
「あーもーなんだよこの暑さ……」
 うんざりした声を上げて、練馬 駈流がカウンターから戻ってきた。手には涼しい色をした夏限定のフラペチーノが、日の光を受けてきらきらと光っている。
 彼は同期駅メン四人組──通称、12号線組のリーダーだ。明るくて歯切れのいい声、くるくる変わる表情と人なつっこさは、初めて会ったひとにも警戒心を抱かせない不思議な魅力がある。口では暑いと言いながらも襟元のタイをきっちりと結び、ベストを着込んで、足許は大ぶりな黒のブーツでキメている辺り、リーダーを自負する彼らしい。
「最近マジ暑すぎ。……ってか、なに? おまえホット飲んでんの?」
「いいだろ、別になにを飲んだって。きみが飲むわけじゃないんだから」
 上から覗きこんでくる練馬をちらりと見、練馬春日町 湊はまばらに落ちかかる前髪の隙間から目をすがめ、静かにが答えた。その涼やかな目許と色白の肌を見ていると、外が冬だと言われてもうっかり納得してしまいそうだ。
「見てるだけであっつー……」
「うるさいな」
「まあまあ、練馬くん。練馬春日町くんも」割って入ったのは豊島園 沙武朗だ。「確かに外は暑いけど、お店は居心地のいい温度だし、ホットもアイスも美味しいよ」
 ね? とにっこり笑んで言う豊島園の手には、練馬春日町と同じく、スタバマークのついたホット用のマグが握られていた。
「それにね、練馬くん。ドリップコーヒーはレシートを持って行くと、当日なら同じサイズの二杯目が100円で飲めるんだよ。ホットとアイスの切り替えも自由。知ってた?」
「えっ、マジ? 知らね。なにそれ、スゲー得じゃん!」
「おい、いいからまず座れって駈流ー。そこ、突っ立ってると他の客の邪魔だっつーの」
 一番奥の席から放られた光が丘 春馬の声に、練馬は「お、ワリィ」と短く応え、すとんとソファに腰を下ろした。
 ここは豊島園駅の近くにある、彼らがお気に入りのスターバックス。
 都内はどこも混雑気味で席の確保が難しいスタバだけれど、豊島園駅前店はどこかゆったりとした雰囲気が漂っていて、とても居心地がいい。映画館やとしまえんへ遊びに行くひとたち、ちょっぴり贅沢に過ごそうと立ち寄る地元のひと──行き交うひとたちが誰も明るい面持ちをしているからかもしれない。本当はオープンカフェもなかなかにオススメなのだが、しかし、今日は暑い夏場の日中だ。こんな日はできることなら店内にいたい。
「ったく、細かいこと言っていちいち湊につっかかるなよな、駈流」
 12号組の終点を預る光が丘が、ややしかつめらしい態度で言い諭すと、練馬はくちびるを尖らせた。
「だってさあ、外メチャクチャあっついじゃん。冷たいの飲むだろフツー」
「夏はいいだろ、どっち飲んでも。沙武朗の言うとおり、店ン中は涼しいんだし。冬につめてーのはぜってーヤだけどな。……あーあ。いっそ冬なんざスッ飛ばしちまって、秋から春ンなりゃいいのによ」
 眉をひそめて心底嫌そうにする光が丘の表情を見て、豊島園は思わず吹き出した。
「あはは。光が丘くんは冬、すごく苦手だよね」
「ああ、大ッ嫌いだ」
「大人げねーなー」
「嫌いなものは嫌いだ。オトナも子どももない」
 茶化す練馬に、光が丘が憮然とする。確かに、彼の健康的に焼けた肌と刈り込んだ短い髪は、暖かい季節とよく馴染む。
「でも、四季がなくなっちゃうのはちょっと寂しいんじゃない?」
「僕も、季節の折々を楽しむ情緒は捨てたくないな。冬の空は嫌いじゃないから」
 ずっと黙っていた練馬春日町がぽつりと呟いた。続けて、俺も俺も! と同意しかけた練馬だったが、
「……そういや俺ら、寒いとかどうとか以前に、冬ってめっちゃトラウマじゃね?」
 ふいと思い出した嫌な記憶に小さく呻り、頬杖をついた。
「それって『悪夢の大晦日』のこと……?」
 豊島園の問いに、練馬が大きく頷く。次の瞬間、その場の全員から深いため息がこぼれた。
 大江戸線と呼ばれるようになる九年ほど前──都営12号線として開業した彼らは、開業からわずか三週間後の十二月三十一日に、いきなり終日運転で働かされたのだ。いまからもう二十年も前の話だが、あの日の記憶は昨日のことのように鮮やかに思い出せる。
「いま思い出しても、そうとう酷い話だよな。俺ら開業して、たった三週間だもんなー」
 練馬が遠い目でぼやくと、光が丘が腕をさすって身震いする。
「全くだ。いっくら大晦日だって言ったって、無茶ぶりにもほどがあるっつーの。……うーわ、思い出したら寒くなってきたぜ」
「……確かに、あの日は寒かったな」
 練馬春日町も小さく頷いて、ふいと当時の寒さを思い出したかのように、温かなマグカップを両手で包み込んだ。
「だろ? もう二度とあんなことしたくないよなー。俺、頼まれても無理、ぜってえ無理ッ」
「だいたいあの車掌って何者だよ、こえーよ。いっつもいきなり出てきて俺らのコトこき使うしよ。勘弁しろっての」
 練馬と光が丘が立て続けにわいのわいのと騒ぎ立てたが、しかし、そんなさなか豊島園は「でも」とおっとり呟いた。
「あの日大変だったけど、たくさんのお客さんを運べたし、役に立ててよかったよ。みんなとも一致団結してがんばったから、あのあとすぐ仲良くなれたしね」
「そりゃ、寒いわ辛いわで良いコトなしよりマシだけどさ。……つか、真っ先にそーゆー感想が出て来ちゃうトコが豊島園らしーよなぁ」
 練馬の苦笑に、豊島園はまばたいた。
「そう? みんながお客さんのためにすごくがんばってたのが、僕はすごく印象に残ってるだけなんだけどな」
「まあ、それなりに無我夢中だったけどさ」
「でしょ? あのとき率先して働く練馬くん、すごくかっこよかったよ。だから、僕ももっとしっかりしなきゃって思ったんだ」
「ちょっ、やめろよー。そーゆーこと臆面なく言うのー」
「なぁに照れてんだよ、駈流」
「チゲえって!」
 光が丘に肘で小突かれ、練馬は慌てて首を振った。
「ンなこと言ったら豊島園なんか、最初っからちょーマイペースの優等生じゃん!」
「そういやあんとき、俺らも客も殺伐としてんのに、沙武朗は通常営業スマイルだったっけなあ」
「だろだろ?」
 ふたりのセリフに豊島園が首を傾げていると、練馬春日町がこそっと囁いた。
「豊島園、それ、きみがいつもどおりにしていてくれると、僕らは助かるっていう話だよ」
「ほんとう? だったら嬉しいんだけど。ありがとう、練馬春日町くん」
 豊島園が笑むと、練馬春日町は「別に」とひと言呟いて、いつの間にか手にしていた小難しそうな本へすい、と目を落とした。
 練馬春日町は表情こそ練馬や光が丘よりも乏しいが、実はあんがい気配り上手なのだ。素っ気ない仕草も本当は少し照れくさいせいだと知っていたので、豊島園はそれ以上なにも言わずに外の景色へ視線を転じた。
 だから、そのひとの姿が目がとまったのは、ほんとうに偶然だった。
「……どうしたんだろう」
 思わずひとりごちると、他の三人が一斉に振り返った。
「どうしたって、なにが?」
「ああ、うん──あそこにいるひとなんだけど」
「ん? どれどれ?」
 豊島園が指し示したのは、ひとりの女性だった。
 歳は四十代後半から五十代あたりだろうか。品の良い薄紫のワンピースを着、白の日傘をさして、暑い日差しの中としまえんの入り口付近を行きつ戻りつしている。
「さっきからずっと、ああしてるんだ」
「待ち合わせじゃね?」
「それにしちゃあ、ずいぶんウロウロしてっけど」
「……捜し物かも」
 四人で思わず顔を見合わせ、とたん、豊島園が席を立った。
「ちょっ、オイ! 待てよ豊島園っ」
 練馬の制止も聞かず、豊島園はマグを返却コーナーへ置いて店の外へ飛び出した。きょろきょろと周囲を見、婦人の姿を探す。
 彼女の姿はほどなく見つかった。未だとしまえん園内へ入らないまま、迷うような仕草で立ち止まっては面伏せ、あおのいてはメインゲートを見上げている。それが、どこか物思いにふけるようにも見えて、少しだけ気がひけたけれど、
「あの、すみません」
 思い切って、豊島園は声をかけた。
 間近で呼ばれた彼女は、驚いたようにまたたいて辺りを見回したあと、「わたしかしら?」とわずかに首を傾げた。
「はい。あの……ひょっとして、なにかお探しですか?」
「え?」
「オイコラー! 豊島園っ!」
 練馬がこちらへ向かって走りつつ、大きな声で呼ばわった。
「勝手に先行くなよなぁっ」
「あ、ごめん。でも僕──」
「わーってるって! 困ってるひとを放っておけない、だろ?」
 にやりと口端を上げ、練馬はいたずらっぽい目つきでウインクしてみせる。
「ども、こんちは。あのさ、なんか困ってるんだったら、俺らが力になっから言ってみ?」
「そんな口の利き方があるか、バカ」追いついた光が丘が呆れ顔で言う。「すいません。コイツ頭弱いけど、悪気はないんで」
「おまっ、頭弱いとか言うなっ!」
「貴女がお困りのご様子に見えたんです」
 騒いでいるふたりを尻目に、悠然と歩いて追いついた練馬春日町が告げた。
「もしなにかお力になれることがあったら、教えていただけませんか?」
「あらあら、まあ……」
 四人に囲まれた彼女は何度も大きくまばたき、それから穏やかに「ありがとう」と言って破顔した。
「入り口で行ったり来たりして、きっとずいぶんおかしなおばさんに見えてしまったわね」
「いえ、そんなことはないです」
 慌てて豊島園は首を横に振った。実際、婦人の身なりは質素ではあるものの、薄い化粧に清楚な衣服を身につけていて、怪しいところなど少しもなかった。
「僕らこそすみません。突然お声をかけて、驚かせてしまって」
「いいのよ。──わたしね、としまえんに入りたくて来たのだけど、あいにくひとりでしょう? なんだか入りづらくって」
「だったら、僕らでよければご一緒しませんか?」
 豊島園が言うと、練馬が拳で「お、いーじゃんそれ!」と大仰に手のひらを叩いた。
「そーしよーぜ。おばさん、コイツ豊島園っての。名前の通り、としまえんの中のコトならスゲー詳しいから任せとけって。せっかく来たんだし、遊んでかなきゃもったいねえよ。ちなみに俺、練馬。で、こっちの筋肉が光が丘で、根暗そーなのが練馬春日町」
「もっとマシな言い方できねえのかよ」
「…………どうも」
 練馬の紹介はどちらもあんまりだったが、婦人の視線に促され、ふたりは小さく会釈する。
「あなたたちが、一緒に行ってくれるの? わたしと?」
「そ、俺ら駅メンと」
「僕たち四人は大江戸線──元都営12号線の駅なんです」
 練馬と豊島園の言葉に、婦人は再び「あら、まあ」と呟きながら大きくまばたいた。

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