テキスト:関 涼子


「きみ、ひとりかい?」
 そう言って、ひとりの男性が身をかがめ、とくがわに話しかけた。
(誰だ? コイツ)
 とくがわは内心で首を傾げた。
 改めて、男を見上げる。駅メンたちよりは年が上に見えた。穏やかそうな表情で、話しかけてくる声もおっとりと柔らかい。
「こんな路地にひとりぼっちじゃ、心細かったでしょう」
 彼は目許を和ませて、そっととくがわの頭を撫でてくる。
(どうやら悪いヤツじゃなさそうだ)
 押しつけがましいところのない優しげな手のひらに、とくがわはホッと息をついた。すると、
「僕が駅まで送っていこう。時間ならたっぷりあるからね」
 ひょいと抱き上げられた。
 くるむように抱かれて、歩き疲れた足がじんわりと温かくなり、緊張がほどけた。それから、にっこりと笑むひとの良さそうな顔が間近になる。
(……ま、いっか)
 少し驚いたけれど、気分は悪くない。乱暴にされそうな気配は微塵もなかったし、駅まで送ってくれるならありがたいと思い、おとなしく抱かれておくことにした。
「僕はね、若い頃はとても忙しくしていて、寝るヒマも無いくらい働いていたんだ。上の命令で、慣れない仕事も色々と頑張ってきたんだけど……」
 とくがわに話しかけながら、男性はゆっくりと歩き出した。
「でも、今は、のんびりと気ままに暮らしているんだ。釣りをしたり本を読んだり、好きなことをしている」
 穏やかな声に併せて、なめらかに景色が移っていく。
 ほんのりと暮れなずむ朱に、少しずつ宵の群青が溶かし込まれてゆく空。そこへチクリ、チクリと灯る、まち針みたいな街の明かり。
 彼と行く神楽坂はいつしか表情を変えていて、さっきまでの、得体の知れない路地ではなくなっていた。
 下町情緒がゆったりと流れる、温かくてどこか懐かしい町並みだ。
「夢にまで見た長いお休みなんだけど、なぜだか、たまに忙しいあの頃に戻りたい気分になるんだよね」
 緩やかに、泳ぐように街を行く男性の声が、ほんの少し寂しげな音になる。
(あーはいはい、噂に聞くリストラってやつかー。良さそうなヤツなのになあ)
 軽く鼻を鳴らしつつ男性を見上げると、すぐ近くに、困ったような笑顔があった。
(可哀想に、まだそんなオヤジの年でもねーのになあ。ま、最近の不況下じゃしょーがないか)
 彼のひとの良さそうな笑みを見ていると、普段は少々口の悪いとくがわでも応援したくなってくる。
(いつか良い仕事が見つかるといいよな)
 世の中ってのはなかなかうまくいかないもんだな、などと思いつつ、とくがわは男性の胸へコトリと頭を傾けた。
「だから、いまでも頑張ってる君たちを、陰ながら応援しているんですよ」
 ちいさく笑んでそう言い、彼の手のひらが優しくとくがわの背中を撫でた。心地よさにうっとりとしてから、
(……ん?)
 とくがわは、思わずまばたいた。――頑張っている君たち?
(駅メンたちのことか?)
 とくがわは首を巡らせ、改めて男性の様子を伺い見た。
 彼の出で立ちはカジュアルなシャツにチノパンで、いかにもゆったりとした休日スタイル。制服は着ていないし、どうやら駅メンではなさそうなのだが。
(まあ、駅メンにも着物着てたり、シャツだけしか着てないだらしねーヤツもいるけどさ)
 男性の顔に鼻っ面を寄せて仰ぎ見たが、しかし彼は変わらずににっこりと笑んだまま、それ以上の話をしようとはしなかった。


 見覚えのある飯田橋駅前に辿り着くと、辺りはすっかり暗くなっていた。
「あ――! あそこっ、とくがわっ!!」
 ぴょこりとコンクリートの上に降りたとたん、大きな声で呼ばれた。とくがわが顔を上げると、
「ホントだ! おーい、とくがわー!」
 駅メンたちが手を振りつつ、一斉に駆けてくるのが見えた。
「よかった。みんなすごく心配したんだよ」
 六本木が心底ホッとした顔で言ってからしゃがみ込み、とくがわの頭をゴシゴシと撫でる。
「気づいたらいないからビックリしたぞ。おまえ、もう少し自己主張しろよな」
 新宿は苦笑し、軽く鼻先をつついた。
「もー! 犬なのに迷子にならないでよっ!」
 遅れて顔を覗かせた汐留は、少し涙目だ。
(あー、悪ぃ、悪ぃ)
 泣かれてしまい、さしものとくがわも胸がチクリと痛んだ。置いていかれたと思ったけれど、自分がよそ見していたのも悪かった、という気がしてくる。
「まあ、無事に会えてなによりだ」
「それにしても、いったいどこへ行ってたんです?」
 都庁と月島のセリフに、とくがわはハッとして振り返った。が――
(あれ? アイツ、どこ行った……?)
 男性は、いなかった。自分を抱えてここまで連れてきてくれて、ついさっきまで隣にいたはずなのに。
「ワン、ワン!」
 辺りを見回し、ほてほてと駅の周りを歩いてみたが、やはり見当たらない。いったい、どこへ行ってしまったのだろう。
「? どうしちまったんだ? オイ、とくがわ」
 首を傾げて近づいてきた両国に、とくがわはもうひと声「ワン!」と吼えた。すると、
「……ああ。迷っていたところを、連れてきていただいたんですね」
 隣にいた門前仲町が、得心したように頷く。
「その男性は、お知り合いの方ですか?」
 とくがわは、ふるふると首を振った。あのあとしばらく彼の話を聞いていたが、誰なのかは結局わからずじまいだった。
「とくがわ、なんて言ってるンだい?」
「どなたか親切な方が、いままでご一緒だったみたいなんですけど……見当たらないそうです」
 とくがわと同じように、門前仲町もまた飯田橋駅を見回す。
「いったい、どちらへ行かれたんでしょう? お礼を言えたらよかったのに」
「ワン!」
 すると両国が顔をしかめ、ごくり、と生唾を呑み込んだ。
「そ、それってまさか……」
「どうかしましたか? 両国さん」
 不思議そうに門前仲町がまばたいた。
「まさか、お、お、お化けとかじゃ、ねーよな……?」
 おそるおそる言う両国の言葉に、駅メンたちはお互いに顔を見合わせ、飯田橋駅前をぐるりと見渡した。
 目の前には、青い闇に背中を押されて、次々と駅に吸い込まれていく足早なひとの群れ。なんの変哲もない駅の風景だ。
「まさか……ね」


 ――そして後日、ミラクル☆トレイン車内。
「よっし! 門前仲町さんのお陰で、だいぶ企画も固まってきたよな!」
 東京の地図を広げつつ両国が自信たっぷりに言うと、門前仲町が照れくさそうに頭をかいた。
「いえ。僕は、両国さんや皆さんのアイディアがとても素敵だったので、ついお喋りをしてしまっただけです」
「なに言ってンだよ。俺たちが思いつきだけで一から調べてたら、どんだけ時間がかかったかわかりゃしねえって」
「だが、あともう一押し欲しい気もするな……」
 そう呟いたのは都庁だ。
「あと一押しって、例えばどんなことだい?」
「できれば単なるミステリーツアーで終わらせず、我々駅に少しでも愛着を持ってもらえるようなお持てなしができるといいと思うのだが」
「ああ……なるほど。それもそうだなあ」
 全員都庁の意見には賛同したものの、すぐにはいい考えが浮かばずに呻ってしまう。そこへ、
「ああ、皆さん、お揃いですね。素晴らしい」
 軽い足取りで車掌がミラクル☆トレインの扉を開け、勢揃いしている駅メンたちの間へ躍り込んできた。
「どうしたの? 車掌さん」
 驚く六本木に、車掌は満面の笑みで包みを差し出した。
「聞いてください。私、お客様感謝デーのいいアイディアを見つけました!」
「これは……」
 他の駅メンたちも、一斉に覗きこむ。包みには、一冊の分厚いファイルが入っていた。
「これ、僕たち駅メンの写真だよ」
「あ、ホントだ! けど、知らないひともいるよ?」
「そのとおり」
 車掌が得意げに胸を張る。
「古いベテラン駅から最近の若い駅まで揃えた、駅メン☆写真集を作って販売するんです! どうです、いい思いつきだとは思いませんか!」
「写真集? 僕たちの?」
「ええ。皆さんイケメンですから、きっと生写真も高く売れます――フフ、フハハ」
 車掌は堪えきれない、というふうに怪しい笑いを漏らした。
「なんならちょっとだけ脱いでもらって、セクシーカットも……」
「そんなのイヤだな、僕」
 六本木がすかさず反対し、両国が頷く。
「そうそ。だいたい今回は俺が企画したミステリーツアーにするって話で、大枠は決定だろ?」
「そうだよー。せっかくこの間、みんなでロケハンもしたんだし」
「ええ。まだまだ東京の知らない一面が見えました。これをぜひ、いろんな方に伝えたいですよね」
 汐留と月島も、頷き合う。
 一斉に反対された車掌は「ちぇ」と小さく舌打ちした。
「けどこの写真、ちょっとすごいぜ」
 新宿が、ゆっくりとファイルを捲る。
「なあ見ろよ、都電荒川線の早稲田さんと巣鴨さんが写ってる」
「えっ、ウソっ! わかーい!」
 汐留が驚いて声を上げると、新宿がひゅうっと口笛を鳴らした。
「さすがイケメンだな。しかもレベルが高い」
「いまだってもちろんカッコイイおじさんだけど、こんな時代があったんだね」
「ここ、JRや私鉄の駅メンまでいますよ」
「こりゃすげえや! いまはない駅までいるぜ」
「よくこんな写真があったね」
「……おや、これはどなたですか?」
「それは飯田町さんですよ。いまはもう廃止されてしまった駅です」
 月島が指した写真を見て、車掌が相づちを打つ。
「飯田町……? 飯田橋ではなくて?」
「ええ。日本で初めて運転された旅客電車、甲武鉄道の始発駅です。甲武鉄道は、中央線の前身にあたります」
「じゃあ、僕らの大先輩だね」
 六本木の言葉に、車掌は頷く。
「やがて牛込駅と飯田町駅を統合し、新しく飯田橋駅が開業したので、駅としての機能を譲りました。しかし、その後も長い間貨物駅や流通倉庫として姿を変えながら駅を支えてきた、とても歴史の古い駅ですよ」
「へえ……すごいひとなんだな」
「縁の下の力持ちってヤツか。カッコイイじゃねえか」
 六本木と両国が感心した声を上げた。
「現在、駅の跡地は再開発されて、とてもきれいな複合施設になっていますよ。隣接しているホテルメトロポリタンエドモンドの辺りがかつての旧駅構内で、いまも記念碑が建っています」
「写真はとても穏やかな雰囲気ですけど、一時代を築いた方なんですね」
「僕、いろいろ話を聞いてみたいなー」
 月島と汐留も身を乗り出し、写真を覗きこむ。
(ったく、騒がしーな。おちおち寝てもいられないぜ……)
 座席の隅で丸くなっていたとくがわは、ひとつ伸びをし、彼らの背後からなんとはなしに写真をのぞき見て――
「ワン!」
 驚いて、思わず大きな声を上げた。
「なに? 突然どーしたの? とくがわ」
「ワンワンワン! ワン!」
「とくがわさん……え? すみません、もう少しゆっくり」
 門前仲町が慌てて進み出て、耳をそばだてる。
「とくがわ、なんて言ってるの? 門前仲町さん」
「興奮なさっていて、うまく聞き取れなくて……ええと、この写真の方ですか?」
「わん!」
 門前仲町は、飯田町の写った写真をとくがわに見せた。
(間違いない、アイツだ!)
 ――だから、いまでも頑張ってる君たちを、陰ながら応援しているんですよ
(アイツだ!)
 ひとが良さそうで優しそうな瞳、以前とちっとも変わっていない。
「飯田町さんが、とくがわさんを……?」
 ようやくとくがわの意図を理解した門前仲町が、目を丸くした。
「先日神楽坂で道に迷っていたときとくがわさんを助けてくれたのは、この方だそうです」
「ええっ!? 飯田町さんが?」
 駅メンたちも驚いて、声を上げる。
「なんでえ。ってことは、幽霊じゃなかったわけか……」
 少々ガッカリしたように両国が呟き、汐留が肩をすくめた。
「いくらミステリーツアーのロケハンしてたからって、そんなわけないって僕も言ったじゃない」
「けどよー、ありゃあタイミング良すぎってモンだぜ」
「ああっ!」
 突然声を上げた六本木を、都庁が訝しんで覗きこむ。
「どうした、六本木」
「あのさ。ミステリーツアーに、昔の駅を巡るコースを入れるのはどうかな?」
 さっきまで全員でにらめっこしていた地図を指し、六本木が興奮気味に続ける。
「駅の跡地で、実際の駅だった飯田町さんが、街の歴史をお客様に説明するなんて面白いと思うんだ」
「なるほど、それは良いアイディアだな」
 都庁が膝を打ち、汐留も身を乗り出す。
「ホントだ。これって、僕ららしいお持てなしになるんじゃない?」
「おおお! まさにまさに! これはナイスアイディアでござるよ、六本木殿!」
 両国も大げさに言って、嬉しそうに頷く。
「よし。では、みんなでこれから飯田町さんにお願いしに行こう」
 都庁の号令に「賛成!」という駅メンたちの声が響く。
「それから、とくがわのお礼もしないとね」
 六本木がにっこり笑って、とくがわの頭をそっと撫でた。
「引き受けてくれるといいねー!」
「ワン!」
 きっと喜ぶさ、ビックリするぞ、ととくがわは内心で呟く。

(さっさと行こうぜ、ほら、みんなでさ)

 ――今日もいろんな浪漫を乗せて、ミラクル☆トレイン、出発進行!



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